2019年1月31日木曜日

◆思いもよらぬ恵みの出来事!

2019/2/1付 万代栄嗣牧師「ぐっどにゅーす」より


先日、松山で仕事をしていた日、南海放送でのラジオ放送の収録を終え、松山福音センターへと自分の車を運転して帰る途中、片道三車線の大通りで、赤信号で停車した時です。ふとバックミラーに目をやると、真後ろに停車した車のドライバー側の扉が開き、男の人が車外に出て来ました。強面の50代くらいの作業服を着たおじさん(…私の方がもっとおじさんだったかもしれませんが…)が、早足でこちらに近づいて来ます。こ、これは?もしかすると今、話題の“あおり運転”の一種なのか?何か、いちゃもんでも付けられるのではないか?…と嫌な感覚が心をよぎりました。


すると、本当に私の運転席の横に来て、窓ガラスをかなり強めにノックするではありませんか? 少々、動揺しながら窓を15㎝くらい開けました。「は、はい?…」。すると、その男性は、ちょっと荒っぽい口調でこう言ったのです。「ドアに、鍵が付いたままだ!」…「あ、ど、どうも…」…確かに、私のたくさんの鍵をまとめたキーホルダーごと、ドアのカギ穴に挿したまま走っていたのです。出発前、荷物の積み下ろしをし、いつもと違う手順で運転し始めたもので、どういう訳かドアにカギを挿したまま、運転席に乗り込んで、ワイヤレスの鍵でエンジンをかけていたのです。


すぐに青信号になりましたので、鍵を取って、自動車を発進させました。…一瞬、ビビッていたのが、文句を言われるのではなく、実はとても親切な方だった。あのまま運転し、鍵を失くしていたら、教会や自宅の鍵も一緒だったので、とても不便なこと、不都合なことになっていたはず…と事態を理解し始めました。そうすると今度は、あの声を掛けてくれた人に、丁寧にお礼の言葉も言うことができず、ああ、申し訳なかった…と後悔の念が湧き上がってきました。どこのどなたであったか、もはや確認のしようもなく、教会に到着するまでの10分あまりの時間、感謝とお詫びの気持ちでいっぱいになり、ただ祈る感覚になっていました。


“人を見たら泥棒と思え”などという諺がありますし、昨今の世の中を見ていると、確かに悪い人も相当増えているのも事実。しかし、日本の社会には良い人もまだまだたくさんおり、もしかすると、神様がその人を用いて、私を不都合から守ってくださったのではとも思え、悪い予感しか持てなかった自分の狭い心が恥ずかしくなりました。私たちは、自分の感情や考え、直感がいつも正しいと思い込む癖があります。しかし、それが全てではなく、むしろとても狭い考えにすぎない可能性を認めなければなりません。


神様を信じていて感謝なことは、私たちの常識や思い込みの枠を超えて、神様はしばしば豊かな恵みを注いでくださる、ということ。私たちの思いも及ばぬようなことを神様はなしてくださいます。聖書が語るのは、常に私たちと共におられ、愛し、導いてくださる救いと恵みの神様がおられること。天地宇宙の創造主であられ、いのちの与え主であるお方が、私たちを守り、祝福してくださるのです。自分という小さなものが、狭量な感覚だけに固執して生きるのではなく、小さく弱いものだからこそ、測り知れない神様の豊かな恵みを受けつつ生きていくことができるのは、本当に感謝なことなのです。あなたの毎日の歩みも、神様の御手の中で、守られ、導かれています。恵みの神様のみわざを素直に受けとめつつ、感謝を持って歩んでまいりましょう。


“まさしく、聖書に書いてあるとおりです。
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、
そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。
神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」”
(新約聖書:コリント人への手紙第一 2章9節)