2019年2月28日木曜日

◆耐えられない試練は存在しない!

2019/03/01付 万代栄嗣牧師「ぐっどにゅーす」より

 
女子競泳界のエース、池江璃花子選手の突然の白血病の公表は、ご本人も動揺と混乱を隠せなかったように、日本中に大きな衝撃を与えました。弾けるような若さと勢い、笑顔で、来年に迫った東京オリンピックで金メダルを奪取し、世界の頂点へ…と視野に入れていた矢先、誰も想像できなかった病魔との戦いの幕が切って落とされたのです。そんな彼女の早期の回復を願い、世界中から寄せられた応援の声に対して、彼女が発信したツイッターのメッセージの中に、次のようなフレーズがあります。“…私は、神様は乗り越えられない試練は与えない、自分に乗り越えられない壁はないと思っています。…”
 
 
実は、これに似たフレーズを、応援メッセージを送った他のアスリートたちもしばしば使っていることに気付きました。このフレーズが、ご本人のオリジナルなのか、周囲にクリスチャンや教会の関係者がいるのかはわかりません。メディアの報道では、長い文章の中で使われたにもかかわらず、この部分だけが切り取られて使われていることも多いように思います。ある意味で、今の厳しい状況の中で、何かフィットする感覚のある表現だと、多くの人が感じているからなのでしょう。
 
 
この表現を、どのような意味で、皆さんは理解しておられるのだろう…?と、考えてみました。中には、難病との取り組みの中で、回復への流れや治癒の可能性が簡単に説明できない辛さやもどかしさ故、さらに少々感傷的な思いも込めつつ、こんな表現に頼って、応援メッセージとして語っている…という人々もいるように思います。しかし、当の池江選手は、もっと強い意思と願いと共に、このフレーズを選択していることは間違いありません。
 
 
人生の窮地に陥った時、“神”を口にするのは、強いことですか、それとも弱いことでしょうか? 実は、それがこのフレーズの味わい処。“困った時の神頼み”などという諺からすると、日本人の多くは、弱さや不確かさ、さらには、もうどうにも逃げ場がない絶望感を持って“神”に頼るようです。しかし、本当の信仰者は、たとえ絶望の淵に追い込まれることがあったとしても、“神”による助けや導き、そして事態の大逆転まで描きつつ窮地からの脱出と、逆説的に勝利を告白します。神が共におられることが、私たちのどうしようもない弱さにおいても、恵みのみわざを体験させることになるのです。
 
 
池江選手を応援するにしても、あるいは自分自身を取り巻く今の状況について語るにしても、私たちは信仰者として、この表現が持ちうる最大限の力強さと、その向こうに浮かび上がってくる希望や勝利をしっかりと意識する者でありたいと思います。私たちの人生は、私たちだけの孤独な歩みではありません。天地宇宙を創られ、私たちにいのちを与えられた神様が共にいてくだるのです。たとえどうしようもない弱さを感じる事態に遭遇することがあっても、絶体絶命だと思わされるような場面を体験していても、神様と共にある私たちには、希望と勝利への道筋が確実に用意されているのです。
 
 
このフレーズを、単なる気の利いたもの、状況にフィットする表現だからという程度の利便性で用いて、本当にただそれだけで終わってしまうのではなく、そこに秘められている大きな力を体験する者となりたいと思います。この言葉は、聖書の言葉。神の御言葉です。しっかりと受けとめ、自分のものとして告白するならば、そこに大きな力が生じます。道が開かれます。奇跡さえ起こるのです。池江選手を応援するにしても、自分自身に語りかけるにしても、この神の言葉が約束する、大きな力と可能性を信じつつ告白してまいりましょう。どのような窮地からでも、神様は助け出してくださいます。
 
 
“あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、
耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。”
(新約聖書 : コリント人への手紙第一 10章13節)