2020年1月31日金曜日

◆神様の壮大なストーリーに生きよう!

2020/2/1付 万代栄嗣牧師「ぐっどにゅーす」より

先日、鹿児島での集会の翌日のこと。地元の新聞を手に取って読んでいたのですが、そこには、どう理解すべきか戸惑う記事が載っていました。それは、地元の小学校の5、6年生が近くの海岸線を清掃し、漂着物調査を行い、レポートをまとめた、というもの。それは文句なしに立派なことなのですが、その結果としての提言が“ボトルレターはやめて!”となったということ。漂着物の中に、ペットボトルに入った手紙を見つけたのですが、ペットボトルは海洋プラスチックごみの代表格であり、そういうものを海に流すことはいけないことであるし、誰かに大切なメッセージがあるのなら、手渡せば良い…、だから“ボトルレターはやめて!”ということになったらしいのです。


もちろん、海岸の漂着物のほとんどは海洋ゴミと呼ばれるもので、特に山陰や九州の対馬海峡や東シナ海側の海岸では、中国や北朝鮮、韓国などからの捨てられた漁具や注射器や薬品の容器などの医療廃棄物、ペットボトルなどが大量に押し寄せています。それは文句なしの大問題。ゴミを簡単に海に捨てる習慣も問題ですし、それを看過しているそれぞれの国の責任も大であり、海洋汚染の深刻さを加速させている由々しき事態です。しかし、それと海岸で、たった一本見つけたボトルレターが一緒にされて、ゴミ問題のサンプルのように扱われるのは、正直どうか?と思ってしまいました。


確かに、流れてきたペットボトルはプラスチックごみ、中身の手紙を本当に誰かに届けたいなら手渡すなり、郵便で送れば良い…本当に子どもたちの発想なのか、指導した先生の考えなのかは、わかりませんが、何だか人間の情緒や人生の機微を認めない、冷めた、つまらない足し算引き算でしかない理屈ではないかと感じました。何百本も何千本もあるのなら問題でしょうが、海岸に打ち上げられた一本のボトルレターを、ゴミの代表として扱わなくても良いのではないかと、シンプルに思ったのです。


こんな理屈で言えば、“名も知らぬ 遠き島より 流れ寄る 椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月…”と島崎藤村が歌った椰子の実も、プラスチックではなくても、実際は海洋ゴミということになります。最近は、街の喧騒を離れて、心をリセットしようとキャンプが流行っていますが、焚火でもしようものなら、CO2を発生させるから即刻中止してくれ!ということになります。実際、瓶に入れた手紙…ボトルレター…をモチーフにした小説や映画もたくさんある訳ですが、心の琴線に触れる数奇な物語や情緒的な人生の展開への興味などよりも、ゴミ問題に加担したり、問題を放置させる有害な物語として排除されることになります。


私は、理屈ではなく、子どもたちには、そのボトルレターから人生や人間関係の深み、人生のドラマに思いを馳せて欲しかったと思います。指導された先生が徹頭徹尾理系の頭の方で、私のような情緒的な文系の頭でなかったのかもしれません。それを記事にした新聞記者も今時の正義感溢れる記事として書いたのでしょう。しかし、あまりにも今のご時世の話題に振り回されただけの表面的な物事の処理のように思われ、子どもたちには、実はもっと大きな価値を教えてあげる機会になったのでは思うのです。


神様のことを、私たち人間の浅はかな知識だけであれこれしようとすると、つまらない答えしか出ないものです。神様を無理やりあなたの頭の小さな枠の中だけに押し込もうとするのではなく、聖書の語る通り、天地宇宙の創り主、いのちの与え主として素直に認めてみませんか? あなたのための愛と恵みの神様がおられる…というメッセージは、決して馬鹿げた神話のようなお話ではありません。神様を私たち人間の小さな理屈の中で理解しようとするのではなく、神様が神様であられる雄大で凄まじく大きな物語のまま受けとめてみる素直さを持つことです。あなたといういのちを愛され、選ばれ、救いへと導かれる、天地宇宙の創造主なる神様、救い主イエス・キリストを通して私たちに語り掛けてくださる神様がおられる…という、壮大な物語の中に、ぜひ自分自身を見い出してください。神様は、あなたを愛しておられます。


“天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、
わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。”
(旧約聖書 : イザヤ書 55章9節)